北向観音の縁起
北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です。
安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられています。
寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまいますが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興されました。
本堂が北に向いているのは、わが国でもほとんど例がありません。
北向観音様は北向に建立され 千手観音様を御本尊として現世利益を願い、また善光寺様は南向きに建立され阿弥陀様を御本尊として未来往生を願います。
現在と未来の片方だけですと片詣りと言われおり、向き合ってる両方をお詣りしたほうが良いと言われるようになりました。
今の時代の幸せを願い極楽世界でも幸せであるようお詣りください。
開門時間
北向観音
お守り
北向観音では厄除、家内安全、商売繁盛、交通安全、合格祈願、縁結び、心願成就、開運など多数の御守りを販売しております。
価格/500円〜1,000円程度
お守りはオンラインでも販売しております。ぜひご利用ください。
北向観音境内
愛染カツラ(市指定文化財)
樹齢1200年の老木で天長の昔、常楽寺の火坑出現の観世音菩薩が影向(ようごう=神仏が一時姿を現すこと)した霊木といわれています。
境内の東隅にある愛染明王堂とこの桂の木に因んで故川口松太郎氏(1899 - 1985、第一回直木賞受賞)が「愛染かつら」を書かれたことはあまりに有名です。
若い人たちからは「縁結びの霊木」として親しまれております。また昭和14年6月5日、長野県の天然記念物に指定されました。
北原白秋歌碑
1923年(大正12年)に家族と別所へ遊びに来た北原白秋はわずか数日で百六十二首の短歌を詠んだようです。
昭和37年11月、この歌碑の前で白秋の法要がいとなまれ、遺族、建碑賛助者が参列して除幕式が行われました。
愛染堂
小堂ながら精緻(せいち=極めて綿密なこと)をこらした名堂として知られています。 本尊は愛染明王で恐ろしい形相をしており、種々な誘惑や困難を打ち砕いてくれるという「恐れる仏」即ち「愛の仏」です。
明治15年、上田常盤城村の色川徳兵衛が新築して献納しました。
温泉薬師瑠璃殿
この温泉薬師は伝説には行基菩薩の創建、慈覚大師の再建といわれますが、以前の薬師堂の位置は今の「大師湯」の西隣りであったようです。
寛保二年(1741)湯川の氾濫によって薬師堂は流され、寛保四年から湯本講中で再建を計画したようです。そして今の建物は文化六年(1809)に湯本講中の積立金により再建されました。
札所観音堂
享保年間篤信者が奉納した秩父三十四観音を安置してあります。元は東側の石垣に沿って建てられており、古図には「秩父堂」と記されています。
現在は北側に移転再建されています。
額 堂
一般庶民は心に秘めた悩みの解消の願いを込め、自身で描いたり描いてもらった絵を神仏に奉納していました。これを掲げたのが絵馬堂です。
北向観音ではこれを額堂といい、江戸時代より絵の展示場として参拝者の目を楽しませてきました。
現在は仁王尊が安置されています。
護摩堂(不動堂)
昭和五十八年に本堂の傍らの護摩堂が再建されました。
これにより境内の全ての堂宇が再建、移転が完了しました。
鐘楼と梵鐘(しょうろうとぼんしょう)
鐘楼の建立年代は不明ですが梵鐘は寛政五年に上田の鋳物師、小島久兵衛弘文とその子、国一の合作でした。
第二次世界大戦で金属の供出という運命にあい行方不明となってしまいました。 現在の鐘は昭和二十四年に長野市で開かれた平和博覧会に出陳された香取正彦の作によるものですが、当時善光寺大勧進の副住職であった常楽寺半田孝海大僧正が求めてこの鐘楼に納めました。
洗心(手水舎)
観音堂正面のすぐ左には参拝前に手や口を清める手水舎があります。
こちらの手水舎は全国でも珍しい別所温泉の源泉です。
北向観音
車椅子用スロープ
北向観音には車椅子の方用のスロープがございます。
入り口は裏参道からになりますが、車椅子のまま本堂へ上がり参拝することができますので、安心してお越しください。